お知らせ

 ☆早創期を回顧して

    諏訪季節大学会二十周年の年に

                   久 保 義 幸

 

  設立までの経緯

 諏訪教育会内に大学設立の議が正式にとり上げられたのは、昭和二十五年の当初のことである。しかし創設の要望は、決して一朝に起きたものではなく、すでにわれわれの先輩が木崎の夏季大学等に出席するたびに諏訪にもこれに類するものを設けることはできないものか、と言われたことをよく聞いたものである。さらに教育者以外の一般の方々からも地方文化の向上のために、その必要は早くから提唱されてもきた。

 諏訪教育会は永年にわたるこれらの要望に応えるため、昭和二十五年九月、大学会設立のための研究会を設けることになった。そして六名の者が原案作成委員として選任され、不肖久保(当時城南小学校長)が委員長に、細野正夫氏(当時永明小学絞長)が副委員長に互選された。

 これら委員は木崎・軽井沢・木曾等の夏期大学の運営の実際を視察すると共に、数回にわたる研究委員会を重ねた結果、

(1)諏訪においても年額約三十万円の経費を支出することができれは、何とか設立することが可能であること、

(2)諏訪としては講座を夏季のみに集中することなく、年間を通じて開設することが適当であること

(3)したがってその名称も「諏訪季節大学会」とするがよい、等の結論に達し、同年十二月の代議員会においてこの原案が種々検討され、いちおう諒承されることになった。

 さらにその間、岡谷市、諷訪市、諏訪郡各町村、その他PTA連合会等の意向もたゞしたが、いずれも、心から賛同してくれ「非常に難事業であるが、万難を排して早急に実施してほしい。われわれもできる限りの援助は惜しまないから」とは大方のご意見であった。

 ここに至り、原案作成委員会は解消し、新たに七名の委員が追加され、計十三名にて諏訪季節大学会設立準備委員会が結成された。その後この委員会により本格的な準備が進められ、開設についての趣意書等が広く配布され、また会則の原案等が作成された。

 さらに翌二十六年二月の代議員会において、教育会は会員一人十円の特別拠金により、年約十二万円を負担し、その他は各市町村に協力をあおぐことが決議された。続いて二月二十六日、諏訪郡町村会々長(故)五味穂積氏、諏訪市教育課長 島立三雄氏、岡呑市教育課長代理宮坂昇氏、教育会よりは会長(故)小口安人氏他役員並びに設立準備委員会の各委員が出席し、主として経費の分担について協議された。そしてその結果、諏訪教育会は会員の特別拠出による約十二万円、信濃教育会高校第三部会諏訪支会より一万円、各市町村は学級割として、岡谷市約三万二千円、諏訪市約三万二千円、諏訪郡町村会十一万五千円、他に主たる関催地負担金として諏訪市二万円、計約三十三万円を各々分担することが決定された。

 その席上、(故)五味穂積氏は「経費は各市町村で何とか心配する。そして運営は教育会の先生方におまかせする。したがって設立の趣旨にもあるように、広く天下第一流の講師の先生をお招きして、この大学会が今後永く続けられるよう努力してほしい」と申されたことは、今も忘れ得ぬ一事である。そしてこの日こそ、諏訪季節大学会が誕生した記念すべき日であるというも過言ではないであろう。

 その後、講座内容・講師・開設地・開設の時期・運営上の機構等について、それぞれ研究協議を重ねられたが、昭和二十六年四月、会則にもとずき役員の決定が行なわれ、運営の一切は運営委員会の手に移行されいよいよ具体化の運びとなった。

 さらに四月の中旬、私は運営委員会の意向による計画の原案を持って、時の教育会々長矢島彦治氏・副会長(故)牛山今朝平氏等と上京し、郷土の先輩西尾実先生、務台理作先生、篠遠喜人先生等にお会いして、本計画について各先生方のご意見を求めたところ、「今までなぜ諏訪においてこのような計画が実施されないだろうかと考えていたことである」「非常に良い計画である」「夏期大学会としないで季節大学会としたことも、立派な講師の先生方を招へいするにも、また一般の人々が参加するにも都合が良いであろう」「諏訪の地域では、相当程度の高い大学の延長講座を持つことも可能であろう」「諏訪ということになればできるだけの協力は惜しまないから」という意味のお話を各先生方からお聞きすることができ、大いに力を得た。そしてこれら三先生の絶大なご尽力により、昭和二十六年第一年目の講座を別表の如き優れた先生方のおいでを得て開講することができた。

 以上が設立、開講までの大要であるが、開設の当初はたまたま教職員の免許法の改訂による認定講習の講義と関係して開設したため、受講者は一講座千四・五百名を数えたときもあり、年間延べ約一万名にも及ぶ盛況であった。

 次に第一年目の経験に照し、顧問の先生を正式にお願いし、主として講師の人選、斡旋にご尽力願うとともに、その運営等についてのご意見をお聞きするのがよいということで第二年目より前記郷土出身の西尾・務台・篠遠の三先生の他に上原専禄先生及び都留重人先生をお願いすることとなった。その後先生方の変らない絶大なお骨折りによって、今日に至っている。

 

  (上記は久保先生が「季節大学20年のあゆみ」に寄稿された文の一部である。)